【高槻雑学】キリシタン大名の高槻城主「高山右近」ってどんな人?

明治7年(1874年)まで高槻市に現存したお城、高槻城。入江城(いりえじょう)とも言われるそのお城の城主であり、キリスト教の熱心な信者としても有名だった高山右近をご存知でしょうか?私はよく通学で高槻城跡公園を通っていましたが、銅像を眺め、どんな人だったのだろうと想像していました。

高槻城の城主「高山右近」

高山右近は、キリスト教での洗礼名はポルトガル語で「正義の人、義の人」を意味するジュストと呼ばれ、カトリック教会の福者として活躍しました。21歳にして高槻城の城主となり、12歳の時に洗礼を受けた教えをそのままに、たくさんの人々を救ったと言われています。

驚くべきことに、高槻の高山右近の領内民衆約25,000人のうち、およそ7割以上の18,000人ほどがキリシタンであり、かつてないほどの盛況ぶりで、至る所に十字架や教会が建てられていたそうです。

信長の怒りを買い、脅迫された高山右近

ところが、そんな平和な世の中も長くは続かず、高山右近の主君であった荒木村重が織田信長に反乱を起こしたため、信長の怒りを買ってしまったそうです。信長に従わない場合は、信者や宣教師を皆殺しにし、教会も全て破壊すると脅されてしまったそうです。

城内で悩みに悩んだ高山右近は、最終的に武士である地位を捨て、民衆を守るために布切れ1枚で織田信長のもとに向かい、許しを乞い、結果一滴の血を流すこともなく、難局を乗り越えたそうです。しかしながら時代には勝てず、豊臣秀吉により宗教を捨てることを強要され、高山右近はそれを拒んだため、領土をはく奪され、流浪の身になったのでした。

最後は淡路島や小豆島などを渡り、かの有名な加賀藩の前田利家に招かれ金沢へと動き、名前を南坊と名乗り晩年は茶道と宣教に没頭したと言われています。

美しいガラスが魅力のカトリック高槻教会

そのような立派な布教者である高山右近を偲び、高槻城跡公園のすぐ近くにはカトリック高槻教会が建てられ、高いドーム状の屋根が印象的な建物は高山右近記念聖堂として高槻市では知られています。とても美しい教会ですので、機会があれば訪問してみてくださいね!

施設名カトリック高槻教会
ジャンル教会
住所大阪府高槻市野見町2−26
電話番号072-675-1472
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駐車場有り